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神戸大好き 明日のKOBEを創る会

過去の研修会

第118回研修会 「あきらめない心」

と き/ 25年9月28日(土) 午後2時開会
ところ/ 長田区役所 (7F大会議室)
講 師/ 野村真波さん
演題/ 「あきらめない心」
 
 

2020年オリンピック・パラリンピックが東京に決定。7年後の日の丸選手団の勇姿に心躍ります。
さて、前回のロンドン大会でのパラリンピックをご覧になられた方もたくさんおられることと思います。中でも日本水泳陣でひと際光る笑顔の選手にご記憶はありませんか。それが野村真波さんです。彼女は、看護学校在校中に交通事故で右腕を失います。しかし、持ち前の明るさとガッツで、現在日本初の義手の看護師として神戸百年記念病院で活躍しております。
このたびは、看護師としてアスリートとして「ブレるな。貫け」をモットーにどんなことも諦めず努力し続ける野村さんの元気をもらえるお話です。皆様奮ってご参加ください。


<プロフィール>
1984年 静岡県出身 五体満足で生まれる
中学生 「看護師」への進路を考える
高校生 「看護師」の道を選び「衛生看護科」入学
20歳 専門学校実習日にバイク交通事故 右腕切断
2005年 看護師の義手を作るため、単身神戸へ
復学
2007年 卒業 看護師国家試験合格
神戸百年記念病院(兵庫区) 看護師として入社
障害者水泳を本格的に始める
2008年 北京パラリンピック出場 100m平泳ぎ4位 100mバタフライ8位
2010年 アジアパラリンピック出場 100m平泳ぎ2位
2012年 ロンドンパラリンピック出場 100m平泳ぎ8位
看護師めざして

 ご紹介ありがとうございます。兵庫区にございます神戸百年記念病院から参りました野村真波です。私は20歳の時に交通事故に遭い、片腕を失いました。家に引き籠る覚悟をして、一生静岡から出ないと決めました。そんな私が神戸で笑顔を取り戻すことが出来ました。人生の先輩方を目の前にして、こんな小娘の私が話をさせていただくのは大変恐縮いたします。この神戸で、ある女の子がここまで頑張ってるということを知っていただければ、私はそれで十分だと思っています。短いような長い1時間と少し、『あきらめない心』という演題でお話をさせていただければと思います。
  私は静岡県静岡市の出身で、3人姉弟の真ん中、次女で生まれました。とにかくおてんばで、外で駆けずり回っているのが大好きな女の子でした。ランドセルの中には体操着とリコーダーくらいしか入っていないような小学生時代で、母親が先生に「真波さんに教科書持ってこさせてください」といわれるくらいに勉強に無頓着でした。
  勉強は大嫌いで仕方がなかったのですが、どうしても看護師という夢をかなえたいと思うようになりました。というのは、野村家の親戚に医療従事者が1人も居らず、姉弟3人がそれぞれ風邪をひいたり怪我をしたりで、母親が「今日の救急病院はどこだ、何時まで開いているんだ」とバタバタしている姿を見て、幼心に「母親を助けたい、母親の頼りになる存在になりたい」と思ったからです。そして小学校の頃に看護師を目指すようになりました。
  水泳は5歳の頃に姉の影響で始めました。クロール・平泳ぎ・バタフライ・背泳ぎの4種目は泳げるようになりましたが、一番になったことはありません。県大会に出たこともありません。それで水泳が嫌で嫌で何度も辞めたいといいましたが、母は辞めさせてくれません。「小学校6年生までやるって言ったでしょう、責任持ちなさい」と言われました。確かに水泳を始める時にそういう約束をしました。ですので、嫌々水泳を続けて、小学校6年生までで辞めて、それ以降はまったく水泳と縁がない生活を送っていました。まさか大人になって水泳で日本代表になるなんて夢にも思いませんでした。
  中学生になって、いよいよ本格的に進路を考える時に、嫌だった勉強も頑張ろうと思いました。どうしても看護師さんになりたかったのです。勉強しなければいけません。高校から看護師になるための勉強が出来る学校を探しました。衛生看護科があるところに入るため、猛勉強しました。そして無事、ギリギリで、高校生のうちから看護師になるための勉強を始めることができました。数学や国語など、すべて普通科の子達と同じように勉強するのですが、衛生看護科はそれに加えて医学、看護の勉強があるので普通科の子達が帰る頃にまだ授業がありました。カバンの中には教科書のほかに、血圧計や聴診器が入っていてとても重たく、充実した高校3年間を送りました。
  そして、高校卒業後は専門学校に入りました。准看護師の免許を取っていたので、起きてまず病院にアルバイトにいきます。そして、ご飯を食べてそこから専門学校に勉強しに行きます。眠たいです。私も寝に学校に行っていました。勉強した後に戻るところは夜勤の病院です。家に帰ることはなくなりました。溜まるのはお金ばかり。
そのお金で中型バイクの免許を取りにいきました。父親がバイクに乗っていたので、お父さんと一緒にツーリングに行きたいと言って父親を味方につけて、免許を取りにいきました。母親は大反対でした。私の水泳にしろバイオリンにしろ、看護の道にしろ、一度も反対したことがない母親でした。自分の好きなことを好きなようにすればいいじゃない、応援するよ。そういってくれた母親が初めて反対したことでした。「女の子じゃないの、事故したらどうするの。バイクで事故になったら大変なことなんだよ」と。

20歳の時バイク事故を

 でも、その大変なことは私にはまったく分かりませんでした。ただただ、好きなことをしたい。バイクの免許を取りたい。自分勝手なことばっかり考えていました。罰が当たったんです。家にも帰らなくなり、バイクも乗り放題。やんちゃな女の子をしていたのですね。いまでは考えられません。
 そして20歳の時に交通事故に遭いました。専門学校2年生の11月でした。もう寒くなっていて、前日から雨が降っていました。道路が濡れていました。アメリカンのバイクに乗って出かけていくのは病院の実習先でした。バイクのエンジンをかけて、ヘルメットをかぶり、リュックサックをしょって、玄関から家の母親に声をかけました。「お母さん、行ってきます」と。母親はまだまだ大反対でした。その声で、台所の母親は私の顔を見ずに「・・・いってらっしゃい」と冷たくあしらいました。その数分後に私は交通事故に遭いました。母親は今でも言います。あの時、顔を見ずに送り出してしまったことを後悔していると。私は母親の心に傷を負わせてしまいました。
 私は大きなトラックにぶつかって巻き込まれちゃったのですが、大きな大きなトラックだったことは覚えています。でも、もう一度私が目を覚ましたときは道路の真ん中で転がっていました。「あ・・・、トラックと、ぶつかったよね?」。意識ははっきりしています。バイクはないので探したら数十メートル先に転がっていました。私の腕は、どうなっていたかというと、まだくっ付いていました。これ以上ここに転がっていたら後続車に轢かれると思って私は起き上がりました。その時に私は腕がおかしいことに気付きました。言うことを聞かなかったのです。「外れちゃったかな、複雑骨折くらいで済めばいいけどな」と思いながら、言うことを聞かない腕を抱えて持って、私は端に寄りました。
 無意識に正座をしました。電話をしなければいけない。まず最初に電話をしなければと思った先は、自宅の母親でした。携帯電話を探しました。リュックサックの中、ポケットの中。後で父親に言われたのですが、「お前の触ったところは血まみれでふき取るのが大変だった」という状態で、段々と自分が座っているところが血の海になってきました。それでも電話しました。「もしもし、野村です」と、母親が出ました。「あ、お母さん、ごめんね。お母さんの言うとおり、事故にあっちゃったみたい、ごめんね」といっているつもりでしたが、上手に言えていませんでした。なぜかというと、顔面を地面にたたきつけてしまって、顎が外れて、顔が陥没していました。お母さんというたびに歯がこぼれ落ちました。グチャグチャでした。ハヒフヘホしか言えませんでした。
 それでも母親は事故を起こしたと察してくれて、「もういいから待ちなさい、救急車呼んだでしょ」「呼んでない」「それでも呼んでくれるはずだから待ちなさい」。確かに救急車が来たんですが、通報は「女の子が道で倒れているから救急車をお願いします」だけで、ぶつかったはずのトラックはいなくなってしまいました。警察にも「ただ転んだだけじゃないですか」と言われました。でも、転んだだけではこうはならなかったのを、病院の先生が証明してくれました。腕は、トラックのタイヤに巻き込まれてタイヤの油や引き摺られた道路の砂がびっちりついていました。それが証拠でした。

腕を轢かれ、顔も陥没

 その砂や油を一刻も早く落とさないと、その菌が全身に回って腕どころか命すら危ないと言われたそうです。私がまず運ばれた病院は自分が行くはずだった病院だったのです。そこで待っているのは学校の先生や友達で、顔は真っ青です。私は「大丈夫だよ」と救急車から手を振ったのですが、大丈夫ではありません。その病院では手に負えない状態だったのでまた救急車に乗って、大きな病院に運ばれました。
 そこで5〜6時間の手術をして、目が覚めたときにはもう真夜中でした。父も母も帰った後でした。真っ暗な集中治療室に横たわって、そこにいた看護婦さんに聞きました。「私って重症ですか?」。上手に喋れないのですが、頑張って聞きました。なぜ聞いたかと言うと、後2カ月で成人式だったからです。着物も祖父母に買ってもらいました。高い高い着物でした。髪の毛も綺麗に長く伸ばして、顔も毎日化粧水でパタパタしていました。
 ですが、事故で顔が陥没していますし、歯がありませんし、上手に喋れません。成人式の当日、まだまだベッドの上にいました。腕はもう切断した後でした。テレビに映っている女の子たちはすごくきれいなんです。綺麗に髪を結わえて、綺麗にお化粧して、買ってもらったお着物を着て、大人になりましたとピースサインしています。あのときほど悲しい気持ちはありませんでした。自分がいるはずだった成人式なんです。祖父母に綺麗な姿を見せたかったのです。でも、私は外に出られる体ではありませんでした。日本で一番傷だらけでズタズタの20歳の女の子だと思えるくらいとんでもない状況でした。
 祖父母も何度かお見舞いに来てくれました。孫が突然交通事故にあって顔がグチャグチャで右腕を切断していて、そんな孫を見舞いに行く気持ちはどんなでしょうか。部屋に入って私を見た祖父母の顔は今でも忘れられません。特に祖父は私に近づくことも出来ませんでした。部屋に一歩入って、壁に背中をつけて、ただただ遠くから私を見ています。その見ている目が、「かわいそうで仕方がない、でも自分にはどうすることも出来ない」という顔なんです。「ごめんね、お着物着れなくてごめんね」しか言えませんでした。祖父母の心にも傷を負わせてしまった私の事故でした。
 そして、どんな治療をしたかと言うと、腕にこびりついた油や砂を取り除く処置、これは手足をベッド柵にくくりつけます。5〜6人の看護婦さんが点滴の生理食塩水を持ってきます。浴槽が私のベッドの横につけられます。そして細い傷だらけの腕をその浴槽に入れます。看護婦さんが私を押さえつけます。タオルを口に押さえつけます。さあいくよの合図で、生理食塩水をタワシで擦るのです。とんでもない処置でした。毎日その処置が10時に行われました。10時になると毎日逃げたくて仕方がなかったです。
 でも、逃げることは出来ませんでした。毎日、逃げないようにカギを閉められちゃうんです。そして毎日そんな処置で泣き喚き、暴れ、衰弱しきっていきました。10時の処置の5分前になると、ただただ涙をこぼして、お父さんとお母さんに言います。「そろそろ時間だから病院から出て行ったほうがいいんじゃないの」と。私が喚く声が病院中に響き渡るらしく、その声を聞いていられない父と母は病院を飛び出したといいました。
 私は歩くこともご飯を食べることも出来なくなりました。ついに死が目の前に迫ってきました。もうその時には看護師の夢どころではありませんでした。生きるか死ぬかを20歳で味わいました。それでも、衰弱しきった体でも、毎日先生に言い続けたことがありました。「腕は絶対に切らないから」。どうしてかというと、看護師になりたかったからです。初めて、心の底から私は看護師になりたいということが分かったのです。そして、腕を失ったらもう二度と、今まで当たり前にあったこの世界で生きることは出来ないと思いました。友達と一緒に買い物にすら行けない。お母さんと当たり前に行っていた夕飯の買い物にもいけない。温泉にもいけない。プールにもいけない。人様の前にこうやって腕のない私が立つことなんて想像が出来ませんでした。だから、絶対に障がい者なんかにならないといい続けました。
 でも、ついに、限界の限界の日が来ました。喋れなくなりました。息するだけで精一杯になりました。その時にやっと母が口を開きました。「限界なの分かっているよね。毎日毎日、痛いって言って、寝れなくって、ご飯も食べれなくって、もういいよ、お父さんとお母さん、決めたの。一生あなたを見ていくって決めたの。だからお父さんとお母さんの帰りを毎日待っていて。それだけで十分だから」。父と母にそんなことを私は言わせてしまいました。

腕の切断を決意

 今までに一度も右腕を諦めろなんていわなかった父と母が遂に言ったということは、相当私は悪いんだと思いました。父と母にそんな覚悟をさせてしまった私は、もう言うことを聞かないとまずいなと思いました。そして、私は腕を切る決断をしました。決断をしただけで、本当に切りたいかと言うと、切りたくないんです。動かなくても、ただ付いているだけでもいいんです。でも、それさえ出来ませんでした。そして先生を呼んでもらいました。一言、「腕を切ってください」というだけにどれだけの時間がかかったでしょう。泣きじゃくって上手に言えませんでした。それでも父と母は「真波の一言を聞いてください」と言ってくれて、先生もじっと待ってくれました。そして先生は、待ってましたとばかりに次の日に右腕を切断する手術を入れてくれました。あっという間の手術でした。バサッと切るだけです。でもこの右腕の治療に何カ月もかけました。先生は「サンタクロースからのプレゼントだよ」と言いました。何がプレゼントだろうかと思いました。
 私にとってこの右腕は当たり前にあって、これからも当たり前にあるはずだったのです。普通の生活を送るはずでした。でも、これからどんな人生が待っているのだろうと思って毎日泣いて、毎日病室から出られませんでした。ナースステーションに行くにも、リハビリに行くにも、大きなストールをかぶって出かけました。絶対にこの姿を人様に見られるのが嫌でした。指さされるのが嫌でした。きっと気持ち悪いといわれているんだろうなと思ったら外に出ることが出来ませんでした。
 顔の手術もなんども繰り返し受けて、これでもきれいになりました。口の中から皮を切って、そこからパズルのように顔の骨を組み合わせて、何度も手術をしました。鼻をもうちょっと高くしたいとお願いしたんですが、無理でした。顔の手術、歯の手術が一番時間がかかりました。そうしてステロイドの副作用と手術の繰り返しで顔はグチャグチャでパンパンで、腕がない。友達の面会も拒絶しました。

神戸で看護師用の義手を

 でもそうやって落ち込んでいる私にある面会者が来ました。学校の先生でした。「1分でもいいから会わせてくれ、お願いだ」と言い、会いました。私は「何を言われるのだろう、そろそろ学校を辞めなさいといわれるのだろう」と思っていました。でも違いました。学校は、「あなたにやる気があるならば、厚生労働省は片腕の看護師を認めるといっている。あなたはどうする、学校もあなたを引き受ける準備は出来ている、あなた次第だよ」と言われました。日本に片腕の看護師は1人もいないそうです。でも、やるしかありませんでした。20歳ながらにどん底を味わって這い上がるしかありませんでした。先生の言葉にしがみ付きました。「お願い、先生、学校に戻らせて。私頑張るから」。
 話はどんどん進みました。そうするなら私のやることは義手を作ることです。看護師用の義手です。日本に1人も片腕の看護師さんはいないのに、どこでその義手を作ってくれるのだろうと思い、静岡の整形外科をいくつも回りました。そして先生達が口を揃えたように言ったことが「神戸に行きなさい」でした。なんで神戸なのだろうと思いました。でも神戸に行かざるを得なくなりました。  家に引き籠ると決めた女の子が一人で神戸に行くのはとんでもないことでした。新幹線に乗るのも一杯一杯でした。どうやって乗ったかと言うと、ジャンパーの袖に父親がたくさんのスポンジを詰めて、腕がないことを隠してくれました。ジャンパーは新幹線の中でも神戸の病院に入っても脱げませんでした。先に診察が待っていました。診察室でようやく脱ぐことが出来ました。今でこそ当たり前にぶらぶらさせている服の袖ですが、当時は嫌で仕方なかったです。神戸が嫌いになりそうでした。1人で来て、誰も知っている人がいなくて、誰も助けてくれない。入院は半年と言われました。毎日病室のカーテンを閉めて泣いていました。リハビリとトイレとお風呂くらいしかそのカーテンを開けることがありませんでした。静岡に帰ることばかり考えていました。
 そういうある時、車椅子の音がしました。そして「出ておいでよ」という一言でそうっとカーテンを開けたら、車椅子の方が「話を聞かせてよ、皆待っているよ」と言ってくれて、私はノソノソと出て行きました。待っているのは私なんかよりもっと障害の重い皆さんでした。話を聞くと「私なんか大したことない」と思えるくらいにとんでもない事故にあったり、病気になったりした人達がいました。私は腕がまだ一本あるし、なにをメソメソしているのと思うようになりました。そしてその仲間と一緒に車椅子バスケットボールを見に行きました。片足がなかったり下半身が動かない選手が車椅子に乗ってバスケットボールをするのです。ぶつかり合い、倒れて転がります。それでも自分の力で這い上がり、起き上がるんです。その姿を見て「なんてすごいんだろう、かっこいい」と思いました。こういう人になりたい。
 自分のすることは決まりました。水泳です。なぜ水泳だったかと言うと、実は一度も褒められたことがない、逃げて逃げて逃げ続けた水泳でしたが、やり続けた水泳でもあったからです。これからの人生はきっとこの腕で生きていくほうが長いはずです。もっと高い壁や嫌なことが待っているはずなのに、そんな時に逃げる自分でいたくなかったからでした。嫌だった水泳をもう一回やろうと思いました。そして先生に「三宮にあるプールに行きたい」とお願いしました。外に出たくないと言っていた私がそんなことを言い始めたので先生はびっくりしました。そして先生はご褒美ではないですが、看護師用の義手の前に一本別の義手を作ってくれました。装飾義手と言って、マネキンのようで、私の左腕と同じサイズで、血管も爪もあります。実は細くてバランスが悪くてもう使えないので、皆さんに見ていただく用になっています。
 私が入院していたのは神戸市西区曙町の兵庫県立リハビリテーション中央病院です。そこから三宮のプールに行くとなると西明石駅まで出ないといけません。歩いていって、そこで切符を買います。そこで問題にぶつかりました。装飾義手はただのお飾りの手なので、私がこうして欲しいと思っても動いてくれません。お財布を出しましたが小銭を出せませんでした。
 今の私なら小銭をジャラジャラ出すか近くの人に頼むと思うのですが、その時には腕がないことを気付かれたくなかったので、そんな大胆な行動は出来ませんでした。一度病院に帰って仲間に相談しました。「どうやったら切符を買えるのか」と聞くと、「お財布を持たないほうがいい、小銭はポケットに入れて出かけなさい」と教えてくれました。そしてそうしたら切符を買って電車に乗れました。  でも、そこでまた問題にぶち当たりました。立って電車に乗るのにバランスをとるのが大変でした。ポールにしがみついて揺れに耐えました。大変でした。電車に乗るだけで一苦労です。そして電車を降りてプールに歩いて向かうのですが、また問題がありました。私は右利きだったので、左腕でピチピチの水着を着ることができませんでした。更衣室はすごく暑くて汗だくで、時間内に着ることができませんでした。仕方なく病院に戻りました。
 そうして出かけていっては問題にぶち当たり、段々気付いたことがありました。「私はプールに行って泳ぐことを目的にしていたけれど、それまでに出来ることがたくさん出てきたんだ」ということがわかりました。今まではあれは出来ない、これは出来ないと考えていたのですが、出来るようになったことを数える方が多くなってきました。とても成長したステップでした。プールに入って気持ちよかったです。水のサラサラという音しか聞こえませんでした。最初からバシャバシャ泳いでいたわけではありません。ただプールの中で歩いたり浮かんだりしているだけで気分が晴れました。
 そんな風にしている間に段々気持ちが変わってきまして、看護師用の義手を作ろうと決意しました。もう嫌で仕方がなかったのです。フック船長の手のようなもの、20歳の女の子にあんな手はないでしょう、無理無理と言っていました。でも「だったら帰れ」と言われました。受け入れるしかないのですが、無理でした。でもだんだん受け入れるようになりました。能動義手と言って、この手がないと仕事が出来ません。見た目は何年前、何十年前の義手なんだと思われるかもしれません。もっといいのがあるんじゃないかと思われるような外観ですが、これが今の最先端だそうです。

片腕の看護師として神戸で就職

 この手をつけて、私はもう一度静岡に帰って復学しなければいけません。その時、神戸を出発する時に「看護師になってもう一度神戸に戻っておいで」と言われてびっくりしました。あの言葉は忘れません。看護師になれたらきっと親の元で頑張って看護師をするだけで一杯一杯なんだろうと考えていました。ご飯を自分で作るなんて無理と思っていました。まさか自分が親元から離れて神戸で看護師をするなんて想像も出来ませんでした。でも、その時にハッと思いました。神戸に来た時には私は泣いていました。カーテンを締め切って出れませんでした。でも神戸を出る時には笑えるようになって、半袖で町の中を歩けるようになったんです。もうすごい変化でした。そうさせてくれたのはこの神戸の皆さんでした。その神戸の皆さんに恩返しをしなければいけない。「看護師として戻ってきます」と約束しました。
 そして私は1年半静岡に戻って、義手をつけてがんばりました。この義手を初めて見た学校の先生がいいました。「これを見て、人が不快になることを考えたことがありますか、この腕で人を刺したらどう責任をとるんですか、この腕なら刺せるでしょう」と言いました。なんて心無いことを言うんだろうと思いました。でも、その時に思いました。頑張っている人に対して、皆が皆「頑張っている」と言ってくれるわけではないけれど、それは自分が成長するための大事な一歩で、それを受け止めないと私は神戸に戻れないと思いました。
 ある病院でも「いまから諦めた方がいい」と言われました。1人の看護師になった時に何も出来ない現実をたたきつけられるよりも、いま学生のうちに何も出来ないことを分かった方がいいと言われました。でも、諦めませんでした。毎日泣いて学校に行きました。毎日職員室に立たされて泣かされて、泣いて帰った復学時代でした。私の唯一の楽しみは神戸の『るるぶ』を見ることでした。神戸に戻りたくて仕方がなかったのです。
 そして無事実習も終わり、いよいよ就職活動です。先生は「あなたは普通じゃないんだから」と言いましたが、普通じゃないのにはもう慣れていました。看護師さんは1社受ければ90%の確率で合格をいただける世界です。2社だったらもう当たり前です。でも私の場合は「たくさん病院を受けなさい、しかもあなたは神戸に行くって言ってるけれど神戸の病院はわかってるの?知り合いはいるの?」と言われました。
 私は静岡から新幹線を使って就職活動をして、神戸市の病院をいくつも受けました。ありがたいことに、すべての病院で合格をいただきました。神戸の人たちはなんてやさしいんだろうと思いました。1社しか就職できないので、断るのが大変申し訳なかったです。でも、どの病院も「待っています」と言われて、本当にありがたいです。そんな風にして私は神戸に就職が決まり、後は国家試験を受けるだけです。試験は筆記しかなかったのですが、無事合格することが出来ました。
 そして2007年、兵庫区のノエビアスタジアムの裏にあります神戸百年記念病院に無事就職することが出来ました。一番に喜んだのは父と母、そして祖父母でした。私が復学していた1年半の間、家事洗濯料理はさせてもらえませんでした。「あんたは学校に行っているだけで十分なんだから家事なんて手伝わなくていい」と言われていたのですが、突然神戸に来た私は料理をどうやって作ろうか、洗濯はどうやれば片腕で上手に干せるんだろうというところから始まりました。でも仕事も朝から晩までで、夜勤もしていました。就職した当時は整形外科に配属されました。先輩と一緒に点滴のボトルをダブルチェックしながら詰めます。ボトルが何十本もカートにぶら下がります。1時間半で、何十本かを患者さんにつながなければいけません。先輩が一緒に居るから一緒にやってくれるだろうと思っていたら、ダブルチェックが終わったら「いってらっしゃい」と言ったんです。新人の私で、しかも腕は義手です。いままでは先生と私が対でしか看護実習させてもらえなかったのに、いきなり看護師になって何でもかんでも1人でやれるようになりました。「えっ、私が1人で点滴を患者さんにつなぐんですか」と聞いたら、「当たり前でしょ、あなた看護師だもの」と言われてうれしかったです。
 そして、見たことがない義手の看護師さんが来て、患者さんに拒絶されることも当たり前だと思って、ひとつひとつ一から説明してお願いに参りました。1時間半ではもちろん回れませんでした。でも、患者さんに時間をかけて説明して、すべての点滴をつながせてもらえました。本当にうれしかったです。何で神戸の人たちはこんなに優しいんだろうと思って、毎日両親に電話していました。「本当だねえ、もうあんたはずうっと神戸にいなさい」と言われました。恩返しをしに来たつもりが、看護師としての私を育ててもらえた神戸の街でした。

北京とロンドンパラリンピックに出場

  そして、まだまだ恩返しが足りないと思いなにをしたかというと、水泳です。リハビリから始めた水泳を競泳としてもう一回始めようと思いました。院長先生、理事長先生、看護部長にお願いしに行きました。何度も頭を下げてお願いしました。「お願いです。人生一度しかないんです。水泳をさせてください。わがまま言っていることは分かっています」。たかが趣味である水泳の為に、シフト調整をしてほしいということを言いました。辞表も書きました。でもギリギリで出すこともなく、理事長先生が許してくれました。
 ありがたい、本当にありがたかったです。片腕の看護師を雇うだけでもリスクがあるのに、ましてや趣味の水泳をやりたいなんて言い出すものですから、とんでもないことなのですが、だからこそ日本代表になんとしてもならないといけないと思いました。そして約束したとおり、2007年入社で2008年の北京パラリンピック代表になれました。ただただ恩返しでしかありませんでした。メダルが欲しいと思ったことはありますけれども、欲しいと言ったことはありませんでした。メダルが欲しくて始めた水泳ではありませんでした。ただただ逃げる自分ではいたくなかっただけで始めた水泳でしたが、北京パラリンピックで平泳ぎ4位になりました。
 すると、次回の2012年ロンドンパラリンピックでは綺麗な色が輝くんだろうと皆さん期待してくれました。その期待を背負って4年間無我夢中で泳ぎました。しかし、片腕がないということは、どこかしらに負担がかかります。私の場合は無理が来たのが股関節でした。足を引き摺りながら仕事をしました。患者さんに聞かれて「足がしびれちゃって」と嘘をつきました。遠く離れた静岡にいる父と母に「調子はどう」と聞かれて「絶好調だよ、今度ドイツに行くんだ」と痛いことを隠し続けました。痛いと言えば「なにを甘えたことを言っているんだ」と言われるから言わないで我慢し続けました。
 2012年ロンドンパラリンピックで現地入りしたときは、足はもう引き摺るどころではなく車椅子にでも乗りたいくらいでした。注射も何本も打って騙し騙しやりました。平泳ぎは競泳の中で一番股関節を動かします。イギリスに入ってその平泳ぎは封印しました。命をかけて練習してきたバタフライで綺麗な色に近づければいいと思っていました。バタフライにかけたのですが、予選敗退しました。プールから上がって通らなければいけないのがメディアのブースです。北島康介選手が「なんも言えねえ」と言ったあの映像を覚えていますでしょうか、あそこは必ず通らなければいけません。マイクを向けられました。「野村選手、いまのバタフライはいかがでしたでしょうか」と聞かれて泣くしかありませんでした。「このままでは日本に帰れません」とだけ言って、控え室に戻りました。
 父と母を会場に呼んでいました。父と母はびっくりして「こんなはずではなかった」と私以上に思ったはずです。父と母には楽しみに来て欲しかったこのロンドンで、なんとしても結果を出さなければいけないと思いました。2日後に100mの平泳ぎが待っていました。封印していた平泳ぎの封印をとかなければいけない、足が取れてもいいから泳がなければいけないと思いました。ここで楽しまなければいつ水泳を楽しいと思えるんだろう、この4年間は苦しんできた4年間なので、いま楽しまなきゃという思いで平泳ぎに挑みました。そして無事8位入賞することが出来ました。これでやっと帰れると思い大泣きしました。父と母にもこの姿を見てもらうことが出来ました。
 父と母は自分たちが死ぬまで私を匿っていこうと決意していました。でもそんなことをさせるわけには行かないと思った私は、この舞台はどうしても見てもらいたかったのです。もう大丈夫ということを見て欲しかったのです。そんな思いで呼んだパラリンピックでした。
私がここまで笑えるようなったのは、神戸に来たからです。こんな人生が待っているとは思いませんでした。私がもう一度神戸に行くと言った時、父と母、祖父母は心配だったと思うのですが誰も反対せず、頑張っておいでと背中を押してくれました。今でも娘は神戸から帰ってこないものだと思っています。それくらい静岡にいる親戚一同、そして私も、神戸に恩返しをしないといけないと思っています。だからこそ、いやなことにもめげませんでした。そして一生この神戸で看護師として頑張って生きたいと思います。病院でお会いするのはあまり良くないことなのですけれども、もしなにかありましたら、当病院にいらしていただけたらと思います。私はこれからずっと神戸で皆さんに元気を送り続けたいと思います。ご清聴いただきありがとうございました。


 
     
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